女子校の時にできた彼氏は「モバゲータウン」のフレンドだった
18歳の頃、東北にあるまあまあ田舎の地元に居た私は、都内の大学に行くために受験勉強に励んでいた。
女子校だった私は出会いもなく、当時流行っていたモバゲータウンを
何気なく毎日ゲームをやる感覚で開いていた。
モバゲータウンでは、友達の友達の友達・・のように連鎖的に知り合いが増え、
小さい街だったこともあり、誰と誰が付き合った、誰は誰の友達というように
すぐに噂話は広がる世界だった。
そんなある日、友達の友達・・という流れで1人の男性から友達申請が来た。
掲示板の方にも、「もしよかったら友達になってください」とのメッセージが残されていた。友人伝いに私を見つけたようだった。
私は何も考えず、友達になることにした。
その後、地元の小さなショッピングモールに女友達と遊びに行く機会があり、
そこは地元の高校生の溜まり場だったこともあり、
飲食物を持ち込めるスペースがあり、友達とそこで
お菓子を食べながら、大学に受かったらどうしたいかなど
青春話で盛り上がっていた。
そんな中、後ろから「〇〇ちゃんだよね?」と男の人から話しかけられた。
他校の友達かなと思い、振り向くとそこに私服の男子が居た。
”誰だろう・・”と考えながら、反応に困った私は
「はい、〇〇です!」と大きな声で答えると、
「やっぱりそうだよね~モバゲータウンで知り合った〇〇だよ!
日記に載せてた写真の人に似てる人がいるなと思ったんだよ」
と言われ、やっとその時状況を把握できた。
友達申請が来た、例の男子だった。
事情を聞くと、モバゲータウンの私の日記に友人とのプリクラや写真を載せていたため、
似てる人がいると思い声をかけてきたそう。
私は、「〇〇さんですよね?この間は友達申請ありがとうございました!」
と律儀に言うと、相手の男はうれしそうな顔で
「仲良くしてね!」と言い、メールアドレスを聞かれ、連絡先も交換することになった。
当時は、ラインが無かったため、連絡手段がメールしかなかったのだった。
一緒に居た女友達にも、ナンパと勘違いされビックリされたが、
事情を説明したところ、そんなこともあるんだねと笑っていた。
後々、メールのやりとりをするようになり、モバゲーでのやりとりではなく
個人間でのやりとりが続き、
例の男は「下の名前〇〇だから、Tって呼んでね!」と言われ
Tと呼ぶことになった。
ということで、例の男=Tということで話を進めていきます。
Tは、1個上の年上男性だった。
浪人中とのことで、19歳であった。
当時の私は、18歳の高校3年生。
やりとりは続き、2カ月ほどメールでのやりとりを重ね、お互いのことも段々分かってきたくらいで、実際に2人で会うことになった。
初のデートは、初めて2人が出会った商業施設。
高校の制服を着た私は、Tの自転車の後ろに乗りながら
青春を感じていた。
とはいえ、一方で大学受験を控えていた私は志望校に入れる学力を持ち合わせていなかったため、猛勉強しなければいけない状況だった。
実の兄に、英語の単語を毎日50個ほど覚えるという宿題も与えられていた私は
”勉強しなきゃ”という焦りもあったが、
Tとの遊びを優先した。

懐かしい・・2人でドラゴン桜っぽい感じでやってて、第一志望に合格寸前だったんだよな
そういっている内に、Tから「付き合わないか」と言われ
お付き合いすることになった。
Tは一個上だが、第一印象は大人びていて、性格も明るく私にとっては
恋愛対象内だった。
高校3年生の秋。Tとお付き合いすることになった私は、
高校の授業が終わり学校から帰宅する、午後4時頃。
ウキウキしながら、帰ろうとすると校門のところに自転車に乗ったTが待っていた。
2人乗りをしながら、お互いの実家や商業施設、飲食店など
田舎デートを楽しみに楽しみつくした。
話を聞くと、Tも東京の大学に進学する予定だったので
一緒に受験勉強もした。
参考書を貸しあったり、お互いの状況を確認しあいながら、
デートを重ねていった。
進む恋愛、進まない受験勉強
そうして、12月になるころ。地元では雪が降ってきた。
最後の地元の冬になるかもしれないと思い、最後の冬を楽しんでいた12月。
高校も、卒業式に近づいていくにつれ、内申点で大学進学したいと思う
同級生が増えていき、どうやら指定校推薦で大学進学するというクラスメイトが
多いという事実に気づいた。
私は春頃から、これまでの遅刻や欠席も多かったため内申点が足りず
指定校推薦がもらえないという状況を先生から伝えられていた。
「そっか、皆みたいに遊びながら指定校推薦で大学には行けないんだ・・」
そういう複雑な思いを抱きながら、どうせなら指定校推薦では行けないような
少し背伸びした大学に行きたいという思いがさらに強まっていた。
高校3年生の冬。Tと週3くらいで会っていた。
冬も近づき、恋人には素敵な季節がやってきた。
お互い実家住みだったのもあり、泊まりはなかったので
デートが終わるとお互い家で勉強するという生活をしていた。
そのころには私もTも、意識が恋愛の方に向いてしまい、
模試の点数も思わしくなくなってきた。
Tも東京の志望大学にはD判定の模試結果。
私も志望大学には、まだまだ合格圏内に入っていなかった。
そんな12月のクリスマス。
学校は、玄関に大きなクリスマスツリーが飾ってあり、
すっかり皆クリスマスモードだった。
高校での私は、仲の良い3人グループに属していたため、
昼になると3人でよく恋バナや将来の話もしていた。
「ねえねえ最近、〇〇(私)好きな人いるのー?」
友達にそう聞かれた私は、正直に答えることにした。
「いるよ、モバゲーで知り合った。」
そう答えると、友達は、ビックリした様子で「知らなかった!じゃあ
今日も放課後デート?」と聞かれた。
「うーん。受験勉強あるから、一緒に勉強しようかなと思ってる」
と答えた、「真面目だね!」と友達に茶化され、思わず笑ってしまった。
放課後、クリスマスの24日。
Tとは、図書館で一緒に勉強することになった。
クリスマスに”勉強デート”なんて、なんて真面目なカップル!なんて
思われるかもしれないが、当時の私達は切羽詰まっていた。
図書館で2人で勉強している間も幸せだった。
赤本を解きながら、ひと休憩しようかと
Tが外に連れ出してくれた。
バーのような雰囲気の飲食店。
飲み物を注文すると、ワイングラスに入ったカクテルのようなものが出てきた。
店員に確認したところ、ノンアルコールの飲み物で安心した。
”乾杯” 2人でグラスを片手に私は制服、向こうはクリスマスを意識してるかのようなお堅いジャケットのような物を羽織りながら、クリスマスに乾杯した。
お互い、この田舎とは最後になるかもしれないという決意をしながら。
私に、東京に行ったら何をしたいか聞かれ、
「合格したら、一緒に六本木ヒルズでデートしたい!」と言うと
Tは笑いながら、「いいね!六本木ヒルズで夜景見るために頑張ろうね」と言ってきた。



これが伏線になるのだな・・
夜、街灯がまだついている21時頃、解散し自宅に戻った私は
「Tと志望校に合格して六本木ヒルズから夜景を見る!」という目標を
紙に書き、部屋の壁に飾った。
目標が決まり、ウキウキしていた私は参考を片手にベッドに横になりながら
将来の野望を頭に浮かべながら眠りについた。
将来への希望、Tとの思い出、受験の不安、
いろんな思いが込み上げながら、毎日楽しい生活に胸を踊らされた。
増えていく嫉妬・・喧嘩・・DV・・
Tとはその後も、デートを重ねていったが、ある日そんな2人に暗雲が立ち込めた。
彼のことが気になりすぎて、携帯をのぞき見してしまったのだ。
FACEBOOKを覗いた私は、女性とのやりとりの1部を見てしまった。
どうやら幼馴染とのやり取りだったらしく、今どうしているか
彼女のほうからメッセージを送ってきたそうだった。
癇癪を起こしてしまった私は、彼のことを言葉で責め立てた。
「なんで他の女と連絡をとったの?ありえない、浮気じゃん!」
彼は動揺していたが、寝ている間に携帯を見られていたことのに
憤りを感じたらしく
「なんで人の携帯勝手に見るんだよ!プライバシーだろ!」
と怒られてしまった。
喧嘩中に、数々の暴言を浴びせた私に、彼はついに手を出してしまった。
力でねじ伏せようとしてきたのだ。
ベッドの脇に頭をドンっと打ち付けられた私は、頭がパニックになり
泣き出してしまった。
泣き出してしばらくすると、彼は「やりすぎた、ごめんね」と謝ってきた。



嫉妬沼もDVも、現代に残る不治の病よ・・
「いいよ、私も悪かった」と言い仲直りしたが、
男性に初めて暴力を受けたというショックから、しばらく食べ物が喉を通らなかった。
その後も、Tとは喧嘩と仲直りを繰り返し、ジェットコースターのような恋愛をしていた。
センター試験、卒業モード一色になる同級生
1月に入り、センター試験を控えていた私達は、会う頻度こそ減ったが
お互いメールや電話で励まし合いながら、紺を詰め勉強し、入試に臨んだ。
入試当日、お互い「今日は頑張ろうね!」というメールをして
入試会場に向かった。
静かな会場の中、みんなが筆記用具を走らせる音だけが響き渡っていた。
限られた時間の中で、問題を解いていく。
今までの努力がどうか報われないか、そんな淡い期待を持ちながら
えんぴつを持つ手は震えていた。
私立なので、3科目しかなかったけど、試験の一日はすごく長く感じた。
人生初のセンター試験。1科目、終わるごとにTは大丈夫だったかと
心配になりながらも、お互い無事終われるように神様に祈りながら
刻々と問題を解いていった。
試験がやっと終わり、入試会場を出ると
外は真っ白な雪に覆われていた。
「綺麗だなぁ・・」そうしみじみ感じながら、入試会場まで車で迎えにきてくれて母親に
手ごたえはどうたった?と聞かれ、「うーん、良かったかな、これで」
と言い、車で実家に帰宅した。
その日の夜、彼から電話が来た。
「今日はどうだった?」少し疲れていた様子の彼は
そう私に聞いた。
「うーん、まずまずだったよ、国語の古文と、政治経済の点数が悪かったかも」と不安を漏らすと、彼は「俺も古文が難関だった」と言っていた。
入試の話のあと、一緒に志望校に入って東京で同棲したいとの話が出た。
私は入試の結果は気になるものの、同棲の話が出たことに嬉しさを隠せなかった。
青春を共にした彼と、憧れの東京で同棲できるかもしれない
そんな淡い期待を抱きながら、
「同棲したいね!」と笑顔で答えた。
彼は笑顔で「よかった!」と言ってくれた。
その日は、実家で兄と両親とご飯を食べながら、反省会という名の食卓を囲みながら
地元でのエピソードや、彼との話をした。
その日はよく眠れた。
学校では上京する子や、地元に残る子、田舎に行く子など,
それぞれの子がいて、18歳のこれからの人生に胸を踊らせていた。
皆それぞれの夢があり、幸せの形を思い描き、
これまで育った18年の地元愛について語り合ったり
高校3年間の思い出を語り合っていた。
高校2年生の時の沖縄旅行、皆で美ら海水族館に行ったこと、
バスの中でよだれを垂らしながら、爆睡していたこと、
移動中、皆でチェキで写真を撮ったこと。
クリスマス会をしたこと。
学校を抜け出して、中敷きのまま街に繰り出したこと。
授業中、抜け出して先生に怒られたこと。
色々な思い出を思い出しながら、懐かしいなこの高校の楽しい時期も
もうすぐ終わるのかと、少し悲しい気分になった。
学校の廊下、下駄箱、トイレ、食堂、校門前、
色々なところに思い出が詰まっていた。
彼との思い出も、校門前に深く刻み込まれている。
自転車で迎えにきてくれた彼。
食堂で友達と昼食をとりながら、「そろそろ私達卒業しちゃうね、寂しいね」
と感慨深く会話していた。
センター試験の失敗・・二次試験も失敗した後の東京で、彼と会ってしまい・・
2月、とうとうセンター試験の結果発表日。
彼との明るい未来を夢見ながら、結果を見た。
予想通り、古文の点数と政治経済の点数が足を引っ張っていた。
センターと大学別の個別試験の総合点で、合格かどうか決まるため
センター試験の点数が悪いと、2次試験にも大きく影響することが分かっていた。
入試結果によっては、最終的にセンター試験の点数だけでは入れる大学に
絞らなければいけない状態になった。
彼に、すぐさまセンター試験の結果について聞くと
彼も思わしくない結果だったそうだ。
予想よりも、古文が足を引っ張っていた。
2次試験までは、会えそうもないねと彼から連絡がきて、
本番までに、勉強に専念しようとのことになった。
2月中旬、本番の試験を控えていた私は、前日に東京に向かった。
大学入試の本番は、大学のキャンパス内で行われたので
一人で夜行バスで東北の田舎から、東京に向かったのだった。
夜行バスの中、彼と連絡を取りながら、「いよいよ本番だね!頑張ろうね」と励ましあった。
志望大学は違ったが、試験日がたまたま一緒だったので、
試験が終わったら、東京駅の銀の鈴の前で待ち合わせしようということになった。
試験前日、シティホテルに一人で泊まった私は、歌舞伎町のど真ん中にある
ホテルに一泊した。
そういえば、ホテルに向かっている最中、キャリーバッグを持って田舎から出てきた私は、すぐに田舎者だと思われたのか
ホストの集団に絡まれた。
「お姉さん、学生さん?どこに行くんですか?お一人ですか?」」
そう聞かれ、馬鹿正直に「受験で来ました。」というと
「そうなんだ!うちのお店に遊びにこない?」と言われて戸惑ったが
すぐにホストの勧誘なんだということに気づいた。



泊り先が歌舞伎町ド真ん中って。。田舎者あるあるな気もするね
”東京って怖いな”と実感しながら、田舎ではないスリルのある出来事に東京への夢がますます広がった。
ホテルに戻り、受験勉強をしながら、大好きだった曲をリピートして聞いていた。
その日はそわそわして、寝つきは良くなかったものの、
しばらくして目をつむっていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
入試当日。その日は東京も雪だった。
風邪予防のマスクをして、慣れない電車に揺られながら、入試会場に向かった。
入試会場にやっとつくと、同じく受験生が沢山居た。
こんなにライバルがいるということ、この中で出し抜かなければならないことを
痛感しながら、改めて受験戦争の恐ろしさを知った。
会場について、試験までの間、憧れの大学の校内に居たこともあり
緊張して手が震えていた。
”こんな憧れの大学に入れたら、最高なのになぁ”
そう考えながらいよいよ試験の時刻になった。
次々出てくる問題、赤本で勉強したはずなのに全然手ごたえがなかった。
思ったよりも苦戦した。やはり、古文と政治経済に時間をとっていた。
やっぱり過去問を解いていたけど、本番は違うなと実感した。
現代文は手ごたえがあり、時間も余ったが政治経済の問題が時間に間に合わず
3科目終わる頃には、疲労もピークだった。
「ダメだったかもしれない・・」
入試が終わり、彼にすぐに電話をかけた。
彼もあまり元気がない様子で試験がうまくいかなかった様子だった。
「落ちたかも」
彼はそういうと、続けてこう言った。
「もし〇〇が入試落ちても、センター利用で東京のどこかしらの大学に行ってほしい、
じゃないと遠距離になっちゃうからさ」
正直、志望校に落ちたら浪人も考えていた私にとってかなり衝撃的な発言だった。
「でもそれは保障できない、地元で浪人するかもしれない、まだ迷ってるんだよね
」と正直に伝えた。



あの頃そんないきさつがあったとはなぁ
彼は、「そっか、それは〇〇が決めることだから、今はいいよ。
これから東京駅で会わない?17時に東京駅の銀の鈴前で待ち合わせね」
そう言われた。入試が思ったよりうまくいかなかったのもあり
気乗りしなかったが、彼に会いたい気持ちもあり
色々話したいこともあったので、東京駅に向かった。
銀の鈴、どこなんだろう、ほとんど初めての東京で
銀の鈴を東京駅構内を探し回った。
ようやく見つけた頃、彼がそこに居た。
しばらく会えていなかった彼との久しぶりの再会に嬉しくなった。
彼も笑顔だった。やっと会えたね、と。
東京駅の近くの喫茶店に行き、受験の話をしていた。
「結局浪人するか、センター利用入試で大学決めるか
どっちにするの?」
そういわれて、しばらく考え込んだが、
彼と東京に来て、一緒に住みたいという思いが強くなっていき
「そうだね、一緒に上京しよう」と決意を固めた私は彼に笑顔でそう言った。
「ありがとう、嬉しいよ」彼も笑顔でそういってくれた。
3時間ほど、東京を散策したあと、大学に受かったら吉祥寺でデートしたいとか
六本木で夜景を見たいとか色々な話をしていた。
親にも電話した。慣れない東京で入試だった私のことを心配してくれていた。
「よかったね、やることはやったよ。後は結果を心穏やかに待とう。」
親にそう言われ、心が落ち着いた私は、彼と解散して、
近くのホテルに1拍した。
次の日、地元にまた夜行バスで帰宅した。
「おかえり」と両親と兄が待っていてくれた。
兄は、彼と出会う前よく勉強を教えてくれていた。
両親も見守っていてくれた。
思わず実家についた瞬間、涙が出そうになった。
その後、しばらくして高校の卒業式が行われた。
3月の初旬、まだ入試の結果待ちの状態で
将来の確証もなにもないまま、思い出たくさんの高校にも
さよならしなければいけないと寂しさでいっぱいになった。
周りの子は、もう進学先も決まっているのに・・



卒業を控えて複雑な思いが交錯する2月。特にセンター後は、それぞれが進路の事で忙しくしてるうちに、あっという間に過ぎていったけ
卒業式は想像以上に感情があふれだしてしまった。
友達に、「今まで本当に3年間、ありがとう、本当に〇〇が友達でよかった
楽しかった、卒業してもずっと繋がっていようね」そういわれた。
卒業アルバムにも、1ページ全体にメッセージを書いてくれた。
大好きな友達と離れ離れ、地元とも疎遠になってしまう、
そんな寂しさを抱えながら、卒業式は終わった。
私にとって高校は特別なものだった。
人生で一番楽しかったのはいつか、と聞かれたら、高校3年間だったと
今なら答えられる位。
卒業式の後、彼が電話をかけてきてくれた。
「卒業おめでとう、寂しいと思うけど、東京で一緒に頑張ろうな!」
そう言ってくれた。
卒業式の後、友達3人でお別れ会をすることになった。
お菓子を広げて、涙を流しながら、高校の時の思い出を語り合った。
私も思わず涙を流してしまった。
寂しい、ずっと此処に残りたい、地元が大好きだ。
そう思った日だった。



その思いも本当。それでも人も環境も、年月で変わっていくんだよな
その数日後、入試の結果の日が来た。
パソコンで受験番号と、パスワードを入力し、結果を確認しようと思ったが
なかなか、開く勇気がなかった。
1時間くらいした頃、母親に「どっちに転んでも、〇〇の人生だよ、大丈夫」
と背中を押され、結果を見てみた。
結果は・・・不合格だった。
合格点より後、3点足りなかった。
悔しかった、でも、受からない可能性の方が感じていたのでなぜか現実を受け止めることができた。
ほどなく、彼から連絡が来て「お疲れ様、結果はどうだった?」
と聞かれた。
「落ちた」と答えると彼は残念そうにしていた。
残った選択肢は、センター利用入試。
私はすぐに、センター利用入試で入れる大学を絞り込んだ。
東京の大学が良かったので、東京の大学で絞った。
センター利用入試の3期で入れるところといえば、
選択肢があまりなかった。
しかし、名前を聞いたことがあり、学科に興味がわいた大学があったので
どんな大学なんだろうと調べてみることにした。
調べてみると、歴史のある大学だった
ここにしよう!そう決めて、親に相談すると
「いいんじゃない?受験してみたら?」と言われた。
すぐさま、資料を取り寄せて、出願することにした。
次の日、彼の入試の結果がくる日だったので、ドキドキしながら
午後になっていよいよ結果発表。
彼から電話が来た。「第一次志望のところは落ちたけど、二次志望の私立の大学は合格だったよ!第一志望の所に受かりたかったけど、本当に悔しいけど〇〇と居られるならいいかな」
第一志望に受からなかったのは、本当に悔しかったと思うが、そう言ってくれたのは心から喜んだ。
あとは私の入試次第だと、そのとき心が決まった。
彼は「〇〇の入試次第だね!頑張ってね!一緒に東京行くために!」
と笑顔で言ってくれた。
「実はセンター試験利用入試で、受ける大学決まったよ!」
そう言うと、彼はビックリして
「どこの大学?」とすぐさま聞いてきた。
「K大学!そこなら合格点に届いてるかもしれない」
と言うと、「じゃあ同棲もできるかもね!」と喜んで話していた。
その数日後、私はK大に出願した。



K大は弟の大学の近くということも背中を押したんだったよね
入試も終わり、ひと段落したので彼と最後の地元デートをすることになった。
街並みを見ながら散歩したり、海を見に行ったりした。
その時の海の綺麗さは、今でも覚えている。
地平線の向こうまで見えそうなくらい3月の海は透き通っていた。
「合格するかな、心配だよ・・」と彼に思わず本音を漏らしてしまったが
彼は「ずっと応援してるからね」と言ってくれた。
その数日後、とうとう合格発表の日。
パソコンで、結果を見ようとしたら、なかなか画面を開けずいたが
意を決して、画面を開いてみた。
結果は、合格だった。
思わず色々な思いがこみあげて来て、涙が出てきた。
両親にもすぐに伝えた、おめでとうと喜んでくれた。
彼からほどなく電話が来て、「合格したよ!!」と伝えたところ、
彼も泣いて喜んでくれた。
どこに住むかはまだ決めてなかったが、彼はもうどこに住むかは
決めていたらしくその家で同棲することになった。
夢の東京生活、彼との生活、新しいステージに踏み出すというワクワク感で
胸がいっぱいだった。
大学入学までの間、彼と地元デートを楽しんだ。
山にも行ったし温泉にも行ったし、母親と3人で地元から離れたショッピングモールにも行ったりした。
もしかしたら、地元から離れてそのまま東京で暮らすことになるかもしれないと思い、
家族との時間は大事にしたいと思い、
家族との時間も大切に過ごした。



そんなことまで思っていたんだね。
私が地元から離れることに対して、「頑張って!」と家族は後押ししてくれたが、
どこか寂しそうな顔もしていた。
大学の入学式の前、1週間前から東京に上京
することに決めていたので、着々と準備を進めていた。
新居に持っていく荷物などをまとめていると、小中高の卒業アルバムが出てきた。
これまでの人生を振り返りながら、卒業アルバムを見ていると
今までいろんな出会いがあったなとしみじみと感じた。
地元でのキャラの濃い人達との思い出は、私にとって何にも変えられない財産だった。
荷物を段ボールに詰めて、いよいよ上京する1日前になった。
両親に「今まで育ててくれてありがとう、全てが良い思い出だよ、本当に感謝してる」
と伝えると、喜んでくれた。
「いつでも帰る場所はあるからね、あまり切羽詰めずに良い思い出たくさん東京で作ってね」と嬉しい言葉をかけてくれた。
彼とは上京するタイミングが少しずれて、3日前に東京に着いていた。
少しの遠距離の間、彼とは電話で話すことが多くなった。
「明日東京に行くよ、東京に行ったら、いろんなところ行こうね!」
と伝えると、「うん!楽しみにしてる!」と答えてくれた。
上京・故郷との別れ・東京で始まった大学生活と同棲
上京する当日、祖母と祖父、そして家族が夜行バスに乗り込むまで
見送ってくれることになった。
「いってきます」そう言うと、「頑張ってね!応援してるから、なにがあってもめげないでね!未来は開けるから!」と祖母が言ってくれた。
正直、家族に背中を向けるのはつらかったが、バスにそのまま乗り込み
地元を離れる寂しさに押しつぶされそうになりながら、
バスは発車した。
思わず涙が出てきた。彼と一緒に住めるというワクワクと地元を離れる寂しさ、
色々な気持ちが入り混じっていた。



(ノω;



兄の目にも涙!
夜行バスで、東京までおおよそ10時間くらい。
朝起きると8時には東京に着いている。
夜行バスの途中、だんだん都会の風景になってゆく、私は東京に彼と住むんだ、
とだんだん実感が湧いていった。
朝7時頃、バスの中では皆足元にブランケット、目元にはアイマスクをつけながら
まだ眠っていたが、私は一足先に目が覚めた。
夜行バスのカーテンを一気に開けると、もうそこは東京だった。
煌びやかなビル街、朝なので人通りはまばらだが出勤途中のスーツを来たサラリーマン、
交通量の多い道路など、東京って改めて大都市なのだと実感した。
しばらくすると、アナウンスが流れた。
「まもなく、新宿駅です。」
バスの乗車客は、次々と降りる準備を始めた。
私もキャリーバッグを取り出し、荷物をまとめて降りる準備をした。
この状況、何かに似ている、思い出したら大好きなドラマの1シーンに似ていた。
当時、放送していた武井咲主演の「東京全力少女」。
主人公の佐伯麗が、実の父親を探すために田舎から東京に1人で上京し、東京で一心不乱にいろんな人に出会い、成長していく話だった。
武井咲が好きだったのもあり、ハマっていた。
そのワンシーンに、香川県から東京に夜行バスで出てくるシーンがあったのだった。
そのドラマに重ね合わせながら、新宿駅に着いた瞬間、
東京に来たんだ!という喜びでいっぱいだった。
新宿駅から、彼の家へ向かい彼と半月ぶりに再会した。
嬉しくてお互い飛び跳ねながら喜んでいた。
彼と私の新しい新居は、ワンルームの6畳ほどの単身用のマンション。
シンプルではあったが、これからインテリアを揃えていこうことでニトリに行き、ベッドシーツや食器など必要なものを、買いに行った。
2人の新居の近くには、商店街があり買い物にも困らなかった。
大学入学式の前に、吉祥寺公園に行こうね、ということで話を進めていた。
そして大学入学式当日。友達ができるか心配になりながらも
周りをキョロキョロしながら、様子をうかがっていた。
すると、オリエンテーションの時に隣に座っていた女の子から
声をかけられた。
「どこから来た子?Nっていうんだ、仲良くしようよ」
Nは花柄のワンピースに、頭にリボンをつけた女の子らしさ全開の子だった。
「〇〇って言います、東北から来ました、こっちのこと全然わからないので
よろしくお願いします、仲良くしてください!」
とういうと、Nは笑顔で「メルアド交換しよー!」と言ってきた。



この子ともドラマみたいな話があるよな。書けるか分からないけども。
連絡先を交換してオリエンテーションも終わり、
ゼミの講師が来て、ゼミの中での自己紹介も始まった。
「東北の田舎から出てきました、〇〇って言います、皆さん宜しくお願いします!」
自分が思ったより上手く自己紹介できた。
ゼミの人達は優しくて田舎から出てきたことをネタに話しかけてきた。
授業が明日から始まるのかと思い、ワクワクしていた。
彼とは、大学でも連絡はとっており、入学式が上手くいったことを伝えた、彼も
初日で友達もできたらしく、上手くいっているようだった。
大学初日の1日が終わり、彼の家に帰宅した。
一緒に夜ごはんを作ろうということで、スーパーに行って夜ご飯の食材を買ってきた。
実家で親に任せきりで、料理の経験もない私は
慣れない包丁を片手に、カレーの具材を不揃いに切っていった。
彼は、心配そうに私の手元を見ながら「俺がやるよ」と言ってきた。
”あ、私家庭的じゃないな、もっと料理上達しないと”とそこで頑張ることを誓った。
その後、隣の隣の駅にターミナル駅があったため、街ブラということで
散歩をしていた。
「東京に来て、〇〇とこうやって同棲できて地元から一緒に出てこれて本当に良かった、幸せだよ」そう言われた。
「私も幸せだよ」そういうと彼は優しく微笑んだ。
大学と彼との家を往復する生活が続いた。
前に連絡をとっていた、幼馴染とまだ連絡とってるの?と聞いたら
「幼馴染だからね、親公認の付き合いだし」
と言われてしまい、また癇癪を起こしてしまった。
当時の私の中で、彼の幼馴染Hとのやりとりがどうしても許せなかった。
できれば縁を切ってほしい、接近しないでほしいとまで思っていた。
この後デートの度に、彼から幼馴染の話題が出ることはなかったが、私のほうから
HさんHさんというようになり、彼との関係も悪くなっていた。



この頃から、妹の内に眠っていた色々なものが暴走し始めた
「ねえ事あることに、Hの名前を言うのはやめてくれない?こっちもストレスたまるんだけど、、」そう言われた。
そんなある日、決定的な出来事が起きた。
Hのモバゲーの日記を見ると、彼と同じ大学に通っていることが分かったのだ。
しかも、上京して東京に来てから、1回会っていたことが分かった。
「どういうこと?同じ大学って、一緒に志望校受けることで
話し合ってたの?しかも、私が上京する前の3日間の間に会ってるじゃん」
そういうと、「幼馴染だからこっちでお茶くらいすることあるだろ、これから同じ大学なんだから、仲良くしておかないとダメだろ」
そう強い口調で言われた私は、そこからどんどん妄想が広がっていった。
「本当は二股してるんじゃないか、浮気してるんじゃないか」など
不安はどんどん広がっていった。
デートするたびにHの話題に私が持っていくとある日彼は、
「なんでこんなに疑われないといけないんだよ!」
そう言いながら、部屋の中で私の頭を壁に打ち付け、何度も殴り始めた。
右目を殴られた私は、洗面所で自分の顔を見ると、右目は黒目以外全部充血して
血で真っ赤になっていた。
眼球が取れるかと思った。
大声で、「やめてよ!殴らないでよ!」と叫んでしまい
彼は慌てて、「隣の人に聞こえるだろ!やめろよ」と言って
私は部屋から出ていった。
怖くなった私は、東京にいる真ん中の兄の家に行くことにした。
兄は私の顔を見るなり「目、どうした?!」と聞いた。
「大丈夫、ぶつけただけだから・・」と答えると
「もしかして彼氏に殴られたとか?」と直球で聞いてきた。
「あ、大丈夫だよ、私が悪いから」
そういうと兄は「もうそいつとは別れた方がいい、家もこっちに住みな」そう言ってくれた。
でも、兄に余計な心配をかけたくなかった私は、
「殴られてない、大丈夫だよ」と咄嗟に嘘をついた。
兄は「そっか、なんかあったらいつでも言ってね。」と優しく言ってくれた。
私は彼の家に結局戻ることにした。
右目の血だらけの目、腫れあがった顔を見て彼は
「本当にごめんね、、そんなつもりなかったんだ」と謝ってきた。
殴られたのは2回目だったので、その頃から彼氏はDV気質があるのか
と疑いを持つようになっていった。
病院に行ったところ、目は眼窩骨折手前のヒビが入っている状態とのことだった。
眼球の骨がヒビが入っている状態だったそう。
病院の先生にも「どうしたの?彼氏?殴られたの?」と聞かれ、
そうなんですと答えると「その男、やめておいたほうがいいよ」と促された。
顔を包帯まみれにして、飲み薬と塗り薬を渡された私は、帰り道、
通行人がじろじろと私の顔をビックリした表情で見てくる視線に耐え切れず
泣きながら歩いて彼の家に戻った。
彼の家に戻ると、「大丈夫?病院どうだった?」と彼に聞かれ
「眼窩にヒビが入ってたそうで、別れたほうがいいって先生に言われた」と伝えた。
「別れたくない・・」彼の口からそう言われ、
私は携帯で今の自分の状態を写真に残そうと、何かあったら
この人を訴えようという気持ちで写真を撮っていたら
彼に携帯を奪われ、写真を消された。
彼は訴えられるのが怖かったらしく、写真を消させたようだった。



写真で見せられたのを今でも覚えているけど、格闘家の眼窩底骨折より腫れていたからね。それだけ重傷だったってこと
私はショックだった。
精神的なダメージから、大学にも休みがちになった私は、単位も取れなくなってしまい
大学を留年するかもしれない状況になった。
なんとしても卒業したかった私は、大学の友達にノートを見せてもらったり
単位を落としたくないことを先生に伝えたりと色々な努力をした。
1年生の後期の頃、私は慣れない環境と、彼との関係にノイローゼ状態になってしまい、精神科に通うことになった。
病名すらつけられなかったが、「鬱傾向が強くPTSDの可能性もある」との診断を受けた。
彼とは、不穏な空気があったものの、ケガが良くなった頃に
約束だった六本木ヒルズデートを12月のクリスマス。することになった。
六本木の風景は、すごく綺麗だった。
煌びやかなネオン街、高層ビル街、東北の田舎から上京してきた私達。
いろんなことがあったけど、彼との思い出は消えない。
夢に近づいたんだと、その時は思っていた。
「来年もここに来れたらいいね」とう彼の口から言われた時は涙が止まらなかった。
休学、帰郷、別れ・・そして退学。人生のどん底から再びの大恋愛
そんな中1月、私は大学を休学することになった。
彼との関係だけじゃなく、大学での他の人たちとの関係や将来の見通しなども含めて、先が見えなくなってしまっていた。
お正月ということもあり、実家に帰ることになった私は
母親に「彼に殴られたあと、精神科に通ったこと、単位が足りなくて進学できない可能性があること、実家でしばらく療養したい」との相談をしたところ、
「その方がいい」と言われ、大学を休学し実家でしばらく療養することになった。
ちょうどその時期、一個上の彼は地元で成人式だった。
FACEBOOKで彼の状況を確認したところ、私とは裏腹に楽しそうにしている彼の写真がたくさんアップされていた。
「なんで私だけこんな目に遭わないといけないの・・」
怒りに近いその感情から、彼のFACEBOOKを見たことを彼に伝え、
怒っていることを伝えると、「もう別れよう」と言われた。
頭が真っ白になった。これまで一緒に頑張ってきたことは何だったんだろうと
彼との思い出を思い出す度に涙が止まらなかった。
別れを直視できなかった私は
しばらく現実を受け止めることができなかった。
その後も、彼に事あるごとに連絡してしまっていた。
「一回会って、話し合わないか」そう言われ、彼ともう一度話し合うことになった。
1月の中旬、地元のカフェで話をしていた。
「これから付き合っても疑われつづけるのも嫌だし、遠距離になったら上手くいかないと思う」そう言われた。
私的には、遠距離でも頑張りたいと伝えたが、彼の決意はもう固まっていたそうだ。
「じゃあね、元気で頑張ってね」そういうと彼はカフェから出ていった。
涙があふれたが、現実をその時ようやく受け止めようという決意が固まった。
2月に入り、実家で精神科に通いながら、家族と過ごしていた。
バイトもちらほらやったりしたが、すぐにやめてしまい
定職に就かず、実家でニート状態になっていた。
自暴自棄になっていたのもあったが、薬の大量服薬をして自殺未遂のようなこともしてしまった時期もあった。
4月に入り、去年は大学の入学式だったなと振り返ったが、
もう大学に戻る気持ちはなく、”中退”という文字が頭の中によぎった。
両親に相談したところ、今の精神状態だと大学に復学するのは無理なんじゃないかと言わ、大学に退学届けを提出することにした。



今振り返ると、このとき既に、彼以外目標がなくなっていたんだね
そして2012年5月。私は大学を中退することになった。
大学中退すると、今後の人生としては高卒扱いになるし就活にも不利に働くことは間違いない。
けれでも、大学に行く元気がそのころの私には無かった。
その後、私は実家で2年間療養しながら、社会復帰に向けて少しずつ
両親と外出したり、リハビリを続けていた。
そんなある日、ネットの配信サイト「ツイキャス」で、何気なく生配信をすることになった。
そこで知り合ったのが、3つ下のその次に付き合うことになった彼氏。
神奈川と東北の田舎の往復でのデートを重ねていくうちに
お互い付き合うことを意識し始めた。
毎日電話もしていたし、2年間彼氏がいなかった私にとって
新しい彼は、癒しの存在になっていた。
もちろん元カレの話もした。「ひどい奴だな、そんな奴許せない」
そう彼は言っていた。
そんなこんなで、付き合うことになり、私は神奈川に行くことになった。
2回目の関東生活である。
ここから私は今まで、関東でずっと暮らすことになる。
新しい彼は3つ下の専門学生。性格もしっかりしており
年下とは思えない位の面倒見の良さで、甘えることもできた。
年下もいいものだな、そう私は感じていた。
神奈川で同棲していた間は、色々なことがあった。
喧嘩ももちろんあったが、彼は手をあげることはなかったし
比較的穏やかな恋愛をしていたかと思う。
私が女性関係で不安なことがあれば、全て自分の口から説明してくれるような優しい人だった。



その彼のことも数えきれないくらい疑っていつも喧嘩していたけどね・・彼の器がデカかったんだと思うよ。部屋は死ぬほど汚かったけどw
その頃には、元カレのことはもうどうでもよくなっていた。
思い出はもちろん美化されているのもあるけど、新しい彼のことで頭がいっぱいだった。
しかしその彼とは、3年の交際の末。ある日破局を迎えてしまった。
一緒に生活いく上で、お互いのだらしない所や、許せないところが出てきて
喧嘩が多くなり、次第に相手のことを大事にしなくなっていった。
そんなこんなで、25歳の夏に、彼とは夏祭りを最後に別れることになった。
25歳の夏、これからどうしようか考えていた私は、同棲していた家も彼名義の家だったため、住む場所もなくなり、横浜でネットカフェ難民になっていた。
横浜のキャバクラやチャットレディをしながら、日払いで給料をもらい、近くのネットカフェに寝泊りする生活が半年ほど続いた。
”こんな生活でいいのだろうか”そう思いながら、ぬらりくらりとその日暮らしをしていた。
恋愛依存だった私は、パパ活の収入で港区生活を謳歌するように。変わってしまった2人が”約束の場所”で再会する
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そんな中、友人の勧めもあり共益費管理費込み5万円の格安シェアハウスに移り住むことになった。シェアハウスは審査も緩いため、すぐ住むには打ってつけだったのだった。
港区のシェアハウス、昔の彼と六本木ヒルズデートを楽しんだが
その六本木の近くのシェアハウスだった。
ここからまた私の第3の人生が始まった。
シェアハウスというと、どんなところだろう・・と不安はあったが、
何事もやってみないと分からない!そう思い、シェアハウスの扉を開けたら
年齢もバラバラの男女がそこには20人ほどいた。
「今日から入る子?」そう聞かれた私は
「そうです!よろしくお願いします!〇〇って呼んでください」
そういうと皆歓迎してくれ、初日にもかかわらず、女性のルームメイトが料理をふるまってくれた。
ここから私はまたのしあがってやる!そう決意を固めた日でもあった。
シェアハウスの友達も増え、一緒に渋谷に出かけたある日。
「20代の女性は今より豊かな生活が待っています」そんな広告トラックが
爆音で通り過ぎた。
なんのトラックか、すぐには分からなかったが、気になってネットで調べて見ると
パパ活アプリの宣伝トラックだった。
パパ活・・?どんなのなんだろう。
興味本位で、携帯でパパ活アプリについて調べてみることにした。
お金に困っていた私は、稼げるなら!と思いパパ活を初めてみることにした。
パパ活アプリではマッチングアプリと一緒でマッチングした人とメッセージをやりとりして、条件を決めてどこかで会う、
その謝礼にお金をもらえるという仕組みだった。
本当にお金をもらえるのだろうか・・?不安だったが、興味本位で会ってみることにした。
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渋谷で待ち合わせ、ハチ公前だった。
黒いズボンにベージュのカーディガンを来ている男性らしく
キョロキョロと探し回った。
すると後ろから、〇〇ちゃん(アプリ名)だよね?
〇〇です。と言われた。
確かに黒いズボンにベージュのカーディガンだった。
1時間半ほどカフェで、お話をして謝礼をもらった。
”え、都会ってすごいな、こんなすぐに稼げてしまうんだ”
そう思いながら、そのお金を握り占めて、服屋に向かった。
欲しい服があったので、その謝礼で速攻買った。
そんな生活を繰り返していくうちに、金銭感覚がおかしくなっていった。
お金持ちと簡単にマッチングしてしまう怖さ、スリル、
お金がこんなにも短期間で稼げてしまう驚き。
何のスキルもない、取柄もない私がなんだか力を持った感覚になった。
田舎の家族には申し訳ない気持ちにはなったが、
何人もの男性と会って謝礼をもらう、そして港区のシェアハウスに戻って
皆とワイワイ楽しく過ごす生活。
正直大学の頃より、ずっと楽しかった。
なに7にも縛られずに、お金にも困らず、欲しいものは大体なんでも買える。
少し嫌なおじさんを相手にしなければいけない以外は
デメリットは何もなかった。
身の周りのブランド品も増えていった。
狭いシェアハウスに、敷き詰められていくブランド品の数々、
周りのルームメイトも、その異様な空気を察知してか、
少し引いていたように思う。
ルームメイトの中には、”港区女子”と呼ばれるインスタでキラキラした生活を送っている女子もいたし、夜な夜な経営者とばかり合コンする女子もいた。
”これが港区女子なのか”そのときそう実感した。
そんなある日、六本木の街をいつものようにパパ活相手に会う名目で
歩いていた。ブランドバッグに、タイトなスカート、ヒール、
巻き髪、どこから見ても港区女子にしか見えない
大学の時の初心な私とはかけ離れた姿で”六本木ヒルズ前“を歩いていた。



港区女子、一皮むけばみんな大体、ケツダシ芋女説
すると、向こうから見覚えのある男性が歩いてきた。
誰だろう。一瞬分からなかったが、経営者のような面持ちの彼。
だけど、すれ違った時に確信した。
青春をともにした、あの初恋の彼だった。
高3の受験シーズンに地元で出会い、一緒に状況し、華やかな東京生活を夢見た彼
地元のジャスコやしまむらで買った服を着て、何もない田舎で数えきれないくらいデートした彼。
その彼は今、六本木ヒルズ前で、高そうなスーツに、ブランドバッグ、隣にはインスタに出てきそうなキラキラ女性と歩いていた。
あの日私と約束した彼が六本木ヒルズでデートするようになったのは、私ではないどこかの女だった。



切ねェ・・
向こうも、気づいたらしく、私のことをビックリした様子で見ていた。
家に帰った後で調べてみると彼は、今経営者になっていた。
しかも、最大手のマッチングアプリ「ペアーズ/pairs」の設計にも携わっていたこともあると知ってしまった・・
さらに、その日、パパ活アプリ「paters/ペイターズ」で彼のアカウントを発見!
そこには彼の年収や住まいと家具、車など港区生活を満喫していそうな写真などがアップされていた。
複雑な思いのまま、次の日になり、もう一度彼のアカウントを見てみたら、
足あとから私のアカウントを見られたらしく、ブロックされていた・・
ということは、六本木ヒルズ前で連れていたあの娘はパパ活で出会ったのだろうか・・?
お互いにアラサーになり、パパ活に手を染め、時代の波と、年月で変わってしまった2人。
そして、マッチングアプリが変えてしまう出会いと恋愛。
思わぬ未来、誰も予想できなかった結末。
未来はこうやって、人はこうやって変わっていくんだなと
その時思った。